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真実を見抜く力を! ―映画 「ひめゆり」 を見て―
                               清水 郁子
 去る九月一五日、 横浜で、 長編ドキュメンタリー映画 「ひめゆり」 が自主上映されました。
 ときあたかも集団自決を巡る教科書検定問題で、 沖縄県民の怒りが噴き出している最中です。
  「ひめゆり」 は既に四回も映画化されており 「今、 またなぜ?」 と思われるかもしれません。 監督によると、 この映画製作の動機は、 学徒隊の生存者が七〇歳になろうとする時、 彼女らから 「体験をきちんとした形で映像に記録しておきたい」 と求められたこと、 とか。
 それから一三年間、 監督はひたすら生存者の声に耳を傾け続けました。 ナレーションを排し、 記録フィルムと海・空・緑の丘・葉の雫・野の花などの自然、 それに音楽を折り混ぜながら、 二二人の生存者が淡々と語る手法は、 想像力を効果的に深めてくれます。
 二二二名からなるひめゆり学徒隊では三ヶ月間で一二三名が亡くなっています。 一五才から一九才までの少女らは、 どのような気持ちで戦場に赴いたのでしょう。 そしてそこに待っていたものは?以下、 少女らの心の変化や心の傷に焦点を当てて、 印象に残った語りを思い起こしてみましょう。

☆ 戦場へ
 戦況が悪化する中“本土”を守るための捨て石作戦が打ち出され、 沖縄に派遣される兵力は五万という少ない状況だったようです。 そのかわりに使われたのが学徒隊ら沖縄の人たちでした。
 語りによると、 石垣島や久米島に帰郷していた少女らに、 教師は 「戦況が激しくなるので帰って来なくて良い」 と言っていたのですが、 四四年秋以降 「帰校せよ」 「帰校しなければ卒業させない」 などの電報を打っています。 家族の反対を押し切って家出同然に参加した少女もいます。

☆ 看護活動で
 初め、 赤十字の旗に守られて活動するのだと思っていましたが、 現実は絶え間なく砲弾が飛び交う戦場でした。 そこで少女らは、 壕掘り・水汲み・食糧運びに始まって、 手術の補助・看護・糞尿のあと始末・死体処理まで昼夜の別なく働き続けます。
 ある少女は、 手術で切断された手を 「チリ箱に捨てて来い」 といわれ、 両手で持って出る時 「すごい女だな」 と驚かれて、 初めの頃涙を流していた自分が、 血も涙もない人間に変わっていることに気付いたと言います。

☆ 南部撤退へ、 そして解散命令
 首里陥落後も日本軍は降伏せず南部へ撤退します。 いわゆる時間かせぎでした。 学徒隊も南風原の陸軍病院から南部へ撤退し“ガマ”と呼ばれる鍾乳洞へ入ります。 このガマには、 住民が避難していたのに、 彼らを追い出して軍や病院が使ったのです。 ある生存者は、 後でそれを知り、 住民に申し訳ないことをした、 自分は加害者だという思いが深いと語られます。
 やがてガマも虱潰しに攻撃され、 突然、 六月一八日に“解散命令”が出るのです。
 負傷して動けない友人らが多数いるので少女らはガマを出ようとしません 「一緒に死にたい!」 と、 追い出す教師も必死で 「早まったことはするな!」 と声をかけます。

☆ 死の彷徨、 最後の叫びは?
 丘陵伝いに荒崎海岸へと逃げた少女らは、 住民や兵士らと共に米軍の掃討作戦で次々と倒れていきます。 最後の一人ひとりの“運命”は、 生き残った後にも深い深い心の傷を残しています。
 共に抱き合って逃げ延びて来た友が背骨をやられ、 置いて逃げてしまい、 迎えに戻った時は火炎放射で火の海だったこと――。
 自動小銃の乱射で、 友人ら四人の死体の下敷きになっていたこと―。 「捕虜になるな」 と教え込まれていたので手榴弾で自決しようとしたが、 ふと母の顔が浮かんで出来なかったこと―。
 そして、 第三外科壕 (ガス弾に襲われ、 生徒三八名、 教師四名が死亡) で生き残った生存者は、 最後の叫びは皆 「お母さーん」 「お父さーん、 お母さーん助けてー。」 「助けてー!」 であった――と。
 ひめゆり平和祈念資料館で亡き友の遺影に向き合う時、 生存者の方々は皆 「申し訳ない」 「ごめんなさい」 と謝りたい気持ちでいっぱいになるそうです。 自分だけ生き残って…。
 今を生きる大人として、 元教師として、 引率した教師達の負い目や心の傷もとても気になりました。 因みに引率教師は一八名、 そのうち一三名が亡くなっています。
 少女らをそして教師らをここまで追い詰めたのは誰か、 彼らはその誤ちを反省し責任をとっているのか――ずっしりと重い真実が手渡されたような気がしています。

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