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重すぎる戦跡と現実 〜沖縄戦跡を訪ねる旅〜
  旅行のきっかけは〇六年六月に公開された南風原陸軍病院壕を見たいということだった。熱いくらいの陽光の中に少年たちの歓声が響く黄金森野球場のわきを通って着いた壕群二〇号の入口。ヘルメットをかぶって入る。真っ暗闇で外と遮断される。頭がつっかえない程の高さと両手を広げた程の巾で掘られた七〇mの貫通壕であった。二一号や一九号への横道壕もあったがベッドが設置されていたとは思えない狭さで、岩面や坑木が黒ずんでいるのは米軍の火炎放射の跡だという。入口にあった医療用の空ビン等には、南部に撤退する際に重傷者に配られたという自決強制用の青酸カリの話を実感させる不気味さがあった。闇の中にうずくまる重傷者たちの姿…。
 ここは師範学校の女生徒と県立第一高女の生徒たち(ひめゆり隊)が動員された所で、彼女たちが砲弾の降る中を水汲みや飯上げに行き来した道も歩いた。木々に覆われた薄暗い上り下りの激しい山道だった。県立第二高女の生徒たち(白梅隊)はもっと前線に近い野戦病院に配属され、解散後には砲弾の飛び交う南部を逃げさまよったという。八重瀬岳の壕はひっそりと静かで人かげもなかった。彼女たちもまた兵士を看護しようという思いとは逆に、自決強制用の青酸カリを紙包みしたという。その心中の痛々しさを、今の私は感じとれない…。
 その他著名でない多くの学校を含めた中学生以上の学徒たちは男女とも約半数が戦死したという。学徒隊を戦闘に巻き込む法的根拠はなく、「志願による義勇隊」の形式がとられたわけだが、苛烈な戦況の中で、義務のような志願だったのではないか。彼ら彼女らが一五年戦争の始まった頃に生まれた人たちだったと気づくと悲しくなる。「戦争の悲惨さは沖縄戦を知ることで初めてわかる」という丸木ご夫妻の言葉がキリキリとわかった。私たちはもっともっと沖縄戦を学習しなければならない!(丸木さんの「沖縄戦の図」の何枚かは佐喜真美術館で観ることができた。)
 今回の旅にはもう一つの目的があった。米軍北部訓練場の「ヘリパッド」(新型ヘリの離着陸場)建設に反対して、やんばるの森を守るべく座り込みで闘っている東村高江地区の人々と、米軍の新基地建設に反対して海上での監視・阻止闘争を闘っている辺野古浜のテント村の人々を訪ね、お話をうかがい、カンパを渡してくることだ。どちらも非暴力の持続力を必要とする闘いである。沖縄には今も闘っている人々がいた。陽にやけたにこやかな顔の人々であった。
 楽しいこともあった。沖縄を彫り続ける彫刻家金城実さんのアトリエで、チビリガマとシムクガマの奥まで案内していただいた知花昌一さんを交えて、泡盛を飲みながらお話できたこと。お二人の〈沖縄人〉という強烈な印象が忘れられない。
   (中支部 田中敏治)
 洞窟(ガマ)の上(へ)に ブーゲンビリア 供花のごと                                   
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