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〜どうして座高って測るんですか〜
 〜日の丸と市旗に向かって礼をするのはどうしてですか〜

 ご無沙汰しています。 また新しい一年が始まりました。 今年度も新鮮な気持ちでやっていきたいとは思っているのですが (略 ・・・。 お聞きしたいことが二つあります。 ひとつは、 この間の身体測定のときに座高を測る担当だったんですけど、 フリョー系の生徒に 「どうして座高なんか測るんだよ!胴長短足を調べてどうすんだよぉ!おら、 答えてみろよ。 答えられないんなら測らねぇからな!」 と言われ、 凍ってしまいました。 そしたら彼は座高計を蹴飛ばして逃げていきました。 先生、 どうして座高って測るんですか。
 それから、 もう一つこれは私自身の疑問なのですが、 入学式、 卒業式で壇上に上がる人がみな、 日の丸と市旗に向かって礼をするのはどうしてなんですか。 (略) 学校に勤めて4年目。 仕事を覚えるより、 わからないことがどんどん増えていきます。 時々首をかしげていると、 主幹の先生から 「考えてばかりいないで身体を動かせ!」 なんて言われます。 その先生こそ、 口ばっかりでほとんど身体を動かさないので、 「おめぇに言われたくねぇ」 なんてハラの中では考えているのですが (笑)。 ・・・ (略)。  (港北区・中学校教員・27歳)

 座高は低いほど良い、 と多くの人は漠然と考えているようです。 座高が高いぶん足が短い、 と思っているわけです。 でもね、 坐ったときの高さを測るのだから、 臀部の肉の厚さなども入るわけで、 足の長さはあんまり関係ないようです。 それに足の長さを測るなら、 端的に股下を計測すればいいわけで、 そう考えると、 座高と胴長短足はあまり関係ないようです。
 少し調べてみました。 学校で身体測定が始まるのは、 明治12年 (1880年)。 文部省の体操伝習所で体操の効果を測定するために身体測定を行ないました。 (年配の方ほど、 体育の先生のことを 「体操の先生」 と言いますね。 日本の近代体育は体操から始まったからなんですね。) この身体測定のことを 「活力検査」 と言ったそうで、 これが現在の身体測定のルーツだと言われています。 その20年後に 「学生生徒身体検査規定」 なるものが定められ、 この頃から体力検査的なものは外され、 検査項目は発育に関わるものが中心となります。 脊柱や眼疾、 聴力、 あるいは栄養不良、 脚気なども加わります。 座高が出てくるのは、 それから40年近く経った昭和12年 (1937年)、 目的は 「内臓の発達状態」 を見るための計測だったようです。 つまり、 上半身と下半身に分けると、 多くの内臓はすべて上半身にあります。 上半身が長いということは、 内臓がしっかり発達している、 というふうに当時の医学では考えられていたようです。 つまり座高が長いほど健康的であるというわけです。 胴長短足は必然的に上半身が発達しているように見えますから、 欧米型の足の長い子どもは不健康とされたのでしょう。 床に坐る習慣の多く、 そのぶん下半身が発達しにくい日本人の体型を肯定するような検査だったんですね。
 そんな検査が、 どうしていまだにやられているのでしょうか。 一説では、 学校の机と椅子の高さを調整するためだなどといわれますが、 生徒一人ひとりが個別に椅子と机の高さを調整しているわけではありませんから、 根拠としては薄弱です。 どうしてほとんど意義のないものがこうして残ってしまうのでしょうね。 座高計をつくっている会社の陰謀?なんてことはありませんよね。
 さて、 もう一つ、 日の丸への礼について。 こちらは、 御真影の話から始めなければなりません。 明治から大正を経て昭和に至る過程で、 天皇皇后の写真=御真影が徐々に全国の学校に配られていきます。 その御真影と教育勅語を安置する場所として奉安殿がつくられていくのが昭和10年前後だそうです。 奉安殿というのは、 学校の敷地内につくられた社 (やしろ) のようなもので、 御真影を火災などから守ることが設置理由だったようです。 元々は、 校長室や宿直室の近くに金庫のような奉安庫というのがつくられていたようですが (教員の宿直制度は元々御真影を守るという目的でつくられたものです)、 関東大震災のときに混乱したこともあって、 校舎の外につくられたようです。 子どもたちは登校時、 どんなに急いでいても、 奉安殿の前を通るときには最敬礼をしなければならなかったそうです。 ときには、 せこい教員が隠れていて最敬礼をチェックしていたといいます。
 この御真影、 いわゆる四大節祝賀式 (紀元節、 天長節、 新年、 明治節)、 と卒入学式の時に、 講堂の壇上奥正面に奉掲所 (観音開きで御真影を安置する) に置かれました。 学校長が白い手袋をして、 御真影を奉安殿や奉安庫から運びました。 式が始まるまでは覆いで隠され、 式が始まると覆いが外され、 一同敬礼。 君が代を歌い、 学校長が教育勅語を奉読、 その後訓話 (戦後64年いまだに 「学校長式辞」 としている学校もありますが、 学校長は戦前の法制度の言葉、 戦後はすべて校長に統一されています)。 壇上に上がるたびに奉掲庫の御真影に深々と頭を垂れるわけです。 このとき壇上に日の丸はなく、 校庭に掲揚するのが一般的だったようです。 こうしたかたちが一般化するようになったのが昭和15年(1940年・皇紀2600年)、 太平洋戦争が始まる1年前です。
 そして昭和21年 (1946年)、 あらゆる学校儀式から御真影が撤去された際、 東大の学長が、 それまでの習慣から何もない舞台正面に礼をしてしまいました。 これに対し学長にそんな礼をさせるわけにはいかんと、 教え子である文部官僚が舞台正面に日の丸を掲げさせたとか。 それ以降、 日本の学校では、 みな壇上の日の丸に拝礼をするようになったようです。 こうしてどういうわけか、 天皇=日の丸ということになり、 戦前のやり方がそのまま戦後も続けられてきたようです。
 もう一つよけいなことを言えば戦前の国旗は三種類ありました。 ひとつは、 帝国陸軍の 「旭日旗」、 もうひとつは帝国海軍の 「軍艦旗」、 そして商船専用として法制化されていた日の丸、 でしたが、 前者二つに対しては、 街で出会った際停止し拝礼することが学校で教えられましたが、 3つめの日の丸に対しては、 礼をしなくてもよかったそうです。 だから出征兵士に贈る日の丸にはたくさんのメッセージが書かれても問題なかったわけです。 もちろん戦前の官庁の掲揚塔に日の丸は掲げられることはなかったそうです。
 こうして考えてみると、 戦前と戦後というのは断絶しているわけではなく、 ねじれながらしっかりつながっていることがわかりますね。 今でも 「学校長」 や 「父兄」 が残っていたり、 御真影の代わりの日の丸に礼をしたり、 教員が君が代を 「起立して心を込めて」 歌わないと処分されます。
 座高にしても 「礼」 にしても、 もともとの意義はなくなっているのに続いてしまっています。 私の職場では、 ようやく 「学校長式辞」 はなくなりました。 でも、 壇上への礼は介添えも含めて続いていますし、 なんと来賓!教育委員会の指導主事 (設置者がどうして来賓なのか私にはわからないのですが) の降壇時に管理職が最敬礼をしてしまいました。 その上、 全市的に横浜市歌斉唱も入っています。 そこまで戦前を引きずりたいなら、 やっぱり 「海ゆかば」 です。 「海ゆかば」 は、 音楽的には 「君が代」 よりずっと優れていて、 国民統合のために音楽がどれほど重要な役割を果たしたのか、 重要な史料的価値があると思うのですが。
                                                                (赤田 圭亮)
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