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「反グローバリズム運動と独立組合のゆくえ」  12・8横校労集会報告

「子どものために」 ではなく、 教員の過剰サービス解消のための教育条件の整備を
茂呂 秀宏


はじめに
 去る一二月八日、 私たちは 「反グローバリズムと独立組合のゆくえ」 (同時多発テロとアフガン爆撃の中で) という集会を、 松山大学の大内裕和氏を講師としてお招きし開港記念会館で開催しました。 このような性格の集会が教員の組合によって開催されることは、 希有なことであり内容的にも示唆されるものが多い集会となりました。 読者の皆様の今後の活動の参考になることを願い集会の報告とします。
★大内講演の骨子
*9・11テロをどえ考えるのか
 アメリカはソビエト崩壊と湾岸戦争の勝利を経て、 一九九〇年代の経済のグローバリズム化の中で、 世界の一極支配を可能とした。 その結果、 核実験禁止条約や京都議定書に従わないアメリカの単独行動が顕著になった。 今回の同時多発テロは、 アメリカの弱点を明らかにしアメリカの確信を震撼せしめた。 その背景には、 グローバリズム化の結果として起こった世界的不均衡や所得格差の拡大があった。 日本はそのようなアメリカの動きに追従し、 戦後的平和主義を廃棄する方向に歩み始めた。
*新自由主義の展開と経済のグローバル化
 欧米諸国や日本では、 第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけて、 ソビエト型計画経済、 ファシズム型、 ニューディール型福祉国家と国家形態は異なるが、 市場原理から国家による社会統合と経済成長をはかる 「戦時総動員体制」 を作り出した。 しかし、 七〇年代のオイルショック・ドルショックにより完全雇用体制が崩壊、 失業が増大、 高成長が終焉し、 八〇年代にはレーガンやサッチャーらによって、 むごいリストラを結果した新自由主義的政策へ転換した。 九〇年代にはソビエトが崩壊し、 金融のグローバリズム化によりドルが世界にばらまかられドルによる経済支配と、 IT革命を通してアメリカによる世界の一元支配が可能となった。 第三世界では、 財政破綻が起き、 先進国内においても格差の拡大が顕著となった。
 日本はオイルショック後、 限定的であるが中曽根が新自由主義政策を展開し総評などを解体したが、 経済的には中成長をとげたこともあって世界的な新自由主義政策への転換を九〇年代のバブル崩壊まではっきり意識できなかった。 新自由主義政策はバブル崩壊後に本格的に展開した。
*反グローバリズム運動の展開
 九〇年代の世界的戦時動員体制から新自由主義・グローバリゼーション化への転換により世界的に経済格差は拡大し、 反グローバリゼーションの運動がまずは第三世界から続いて先進国内からも起こり始めた。 一九九二年にリオデジャネイロにおける国際環境開発会議で、 グローバリズムによる社会的・地域的格差拡大への抗議が出され、 一九九九年のシアトルWTO閣僚会議では、 先進国内からの労働運動・農民運動や大衆運動や左翼運動の合流があった。 二〇〇一年のジュノヴァのG8サミットに対しては一五〜二〇万人が反対運動に参加して、 日本でもこの運動の存在が知られるようになったが、 マスメディアではフーリガン的扱いであった。
 フランスには国際的な金融取引に対する課税を要求し、 事実上ドルによる世界支配をしている投機的資本との闘いをしているATAC (アタック) というユニークな団体がある。 また、 社会党政権が新自由主義化の政策を推進した結果、 社会党政権を支えた既成組合 (CFDT) から独立組合 (SUD) が結成され、 それが新自由主義・グローバリズムに反対する運動を展開した。 その運動として、 反失業闘争や社会的少数者との連帯が掲げられた。
 アメリカでも、 労働組合運動の社会的少数派との連携や、 環境保護などの社会運動への転換が計られている。
*世界の同時性からずれた日本
 日本では、 八〇年代に、 オイルショック後の中成長を背景にして日本的経営が礼賛され、 ポストモダンの思想がヨーロッパからは学ぶものがないと受け止めてしまい、 思想の内閉化がもたらされた。 また、 七〇年代の新左翼運動・学生運動の解体のなかで社会的政治的関心が薄まり、 消費主義が上昇した。 その思想を権力が運用し、 総評が解体され労働運動が衰退させられた。 また、 銀行・建設などの非効率部門がそのまま維持された。 その結果、 日本は世界的な新自由主義への転換とは異なる道を歩み世界的同時性とのずれを生じ、 本来は一九七三年までに終わっていなければならない右肩上がりの成長を前提にした戦時動員体制が一九九〇年前半ごろまで継続した。 小泉構造改革とは、 この間できなかったことを一気にやろうということである。
*教育における新自由主義政策
 また、 日本の教育界における動向としては、 八〇年代の中曽根の臨時教育審議会で教育の自由化が出された。 それは、 画一的・平等な教育への批判として教育問題への対応として出されたが、 実質的には教育部門のリストラ策として考えられていた。 このような動きに対して、 国家対国民という構図をもち、 国家統制からの国民の自由を主張する国民教育論は、 この臨教審の自由化論の意味を正確にとらえ対応することができなかった。 その理由は、 国民を国家に対する権利の主体と考える国民教育論が、 国民の意識が権利要求からよりよいサービスを要求する意識へ変化したことを理解できなかったことである。 その結果、 国民が自由化政策を展開しようとする政府の施策に反対できなくなっていたのである。 権力側はこのことを意識しながら政策の組み替えをやった。 一九八四年に臨教審で提起された自由化の提起の実現は、 九〇年代に入り 「ゆとりと個性化」 というキーワードで現実的政策として展開された。 この言葉は、 戦後から教育学者が主張してきたものであり、 教育問題として理解できるものであった。 九〇年代から、 観点別評価の導入、 生活科の導入、 学校選択の自由化、 高校教育の多様化、 大学設置基準緩和、 大学の多様化など、 教育の市場化への再編として進んだ。 これからは、 市場の中で先生を鍛え直すという宣伝のもとでの人事考課制度の導入、 消費者のニーズにあった学校づくり・経営体としての学校づくりが前面にでてくる。 当面は国立大学がねらいうちされ (例えば独立法人化に反対している山形大学)、 国立大学の独立法人化の動きが焦点化してくる。
*今後の課題
 このような事態に有効に対処するために必要なことは、 小泉の構造改革が日本版グローバリゼーションであるととらえること、 この政策によって拡大する格差や労働の問題を欠落させた消費主義を問題にすることである。 具体的には、 消費主義によって分断されている公務員と民間労働者や市民が連帯して闘いを展開していくこと、 労働組合が、 失業や周辺労働などの社会的問題に取り組み労働運動の再生をはかっていくことが課題である。
 教育の問題としては、 市場対共同体・教育という考え (プロ教師の会、 佐藤学)、 社会の多くの問題を教育・学校で解決しようとする考え、 教育の肥大化を市場化・スリム化で解決しようとする考え (寺脇研、 小浜逸郎) があるが、 これらは決して対立するものではなく、 どちらにしても教員に苛酷な労働を強いるものでありすべてだめである。 必要なことは一つは過剰な (教員の) 教育奉仕を相対化するための条件要求、 もう一つは自己の労働条件の向上だけでなく、 失業者や周辺労働者 (学校にも大量に入る) の問題など社会的問題に取り組んでいくことである。
★会場から意見と討論
 大内講演を受けた会場と講師との間で意見交換がなされました。
Q. 佐藤学などが 「学びの共同体」 などの主張をしているが、 共同体もだめだと言われる理由をもう少し話して欲しい。
大内 共同体と言った時まず念頭にあるのはプロ教師のこと。 河上亮一の主張には、 消費社会の影響を受けない学校共同体作りから社会を変えるという考えがある。 しかしそれはいきづまり、 結局は学校外の国家権力と結び奉仕活動などをと主張している。 佐藤学の学びの共同体論は、 その教育主義と排他性に対して同意できない。 小浜逸郎について、 教育主義を相対化し学校が社会の問題を取り入れすぎ身動きがとれなくなっている現状批判には同意するが、 その改革プランは市場原理導入につながる。
Q. 地方分権化を市場化という動きとの関連でどうとらえているのか。
大内 小さな政府論では、 競争が強まり市場原理が社会を統制することになる。 新自由主義はポピュリズムである。 ただ、 分権論も徹底すればおもしろい。 例えば、 校長の勤務評価を教員が行うなど。
Q. 新自由主義の政策は抵抗を受けつつそれなりに進んでいく。 学校の民営化を見越した対応が必要。 学校の権力が分化することは確実。 それに対抗するわれわれの側の公として、 権力として独立組合の結成を戦略化できないか。
大内 自由化を反転させることはできる。 下からの公共性というものを主張したい。 ただ今は、 自由化への疑問を出すことが先決。
Q. 小浜への評価が違う。 小浜さんは教育は親がすべきという主張である。 「おそい・はやい (お・は)」 という雑誌での大内さんの 「公への批判が強すぎる」 という主張はおかしい。
大内 日本の公教育への投資は欧米に比べても少ない。 自由化政策・グローバル化が進めば進むほど、 公的部門の投資は減る。
Q. 今の小学校では、 地域の人を講師にまねくということが優先され、 教師としての専門性が軽んじられている傾向が強く出てきている。 どう思うか。
大内 専門家が専門性を否定している状況がある。 新自由主義政策の展開の中で、 知性が崩壊し文化の根幹が崩壊している。 新自由主義は、 反知性である。
Q. 学校と企業は異なるという考えをどう評価しているのか。
大内 バブルの時期と消費主義は連動していたが、 バブルが崩壊した今は消費主義の前提がなくなり公共部門への関心は高まってくる。 今、 アルバイトをしていない学生はいない。 働くことの意味の理解が進み、 階層の格差の拡大に対する批判から労働運動の可能性は出てきている。
司会 社会の分化が進んでいる。 教育の場においては、 国民教育論は消費者意識にからめとられている。 そのような中で現場でいい教育をしようという幻想が現れてきているが、 所詮教育は強制的なもの。 合理的な必要最低限のサービスを提供すればよいと思う。
  現場にいくと教育が労働であるということが忘れられて 「先生」 になってしまう。 労働がサービスになり不可視になっている状況を可視できる状況に変え、 親と教師がサービスを受ける側とサービスを提供する側という関係ではなく、 ともに労働をするものとして状況に立ち向かえるようにしたい。 労働組合に加入していることを喜びに感じられるようにしたい。
★集会の論点と感想
 大内講演と会場との討論と組合の提起 (略) を重ねて見ると、 多くの論点が出されていることがわかります。 そのなかで、 新自由主義批判を共同体や国家の再建運動に回帰させてしまうのではなく、 新自由主義のお先棒を担ぐものでもなく展開していく道筋と、 独立組合の役割が少し垣間見えたようです。 最後に重要だと思う論点と感想を述べたいと思います。
@ アメリカ東部の同時多発テロ・破壊活動のとらえ方について
 この事件がアメリカの弱さを露呈したという側面もあるが、 反グローバリズム運動のみならず、 パレスチナのイスラエルに対する闘いへ打撃を与えたことは否定できない。 また、 結果論的にはアメリカの世界への支配力は逆に強まり再び単独主義に戻りつつあるのではないだろうか。 九・一一同時多発テロを無差別な破壊活動としてとらえ直し、 異教徒・異文化の存在を認めない排他的独善的イスラム原理主義の批判を展開することで、 新自由主義によるグローバリズムが既成の権力の否定という側面をもちつつ、 市場原理を通してより苛酷な規範の強制をもたらすことへの批判を具体的にはアメリカンスタンダードの世界化への批判をしっかり展開することができるのではないか。
A 日本における新自由主義化政策に対する当面の対応について
 七〇年代から二〇〇〇年代に至る日本の特殊状況がすっきり分析されている。 しかし、 新自由主義化の展開の結果として格差拡大を是正せよという主張が、 旧来の公・国家権力の復権につながらない保証をどのように考えるか。 自由〜支配という観点から、 格差〜平等という観点に転換して要求を立てると、 どうしても旧来の福祉国家的なものの復権というところに陥らざるをえなくなる。 確かに新自由主義の展開が市場原理を通して格差の拡大と新たな規範の強制をもたらすことになることは前述した通りである。 しかし、 市場原理導入とは違った 「自由化」 という概念がもつ多義性や相対性や地方性・分権的発想を否定することはできない。 そのようなものを実現する 「自由化」 をわれわれの側から主張するほかないのではないか。 特に 「日本的」 集合的意識を尾につけつつ展開せざるを得ない日本的新自由主義・グローバリズム化に対抗することは、 「自由化の徹底」 という要求からそれを批判し、 「自由化を反転」 させつつ我々の主張を実現化することはできないだろうか。 例えば、 校長権限の強化をはかりつつ経営体として学校を独立させていく形で進むであろう学校民営化は、 見方によれば権力の分化である。 そのような変化に対して、 「分化した権力」 に 「われわれの権力」 を作り出すものとして、 経営単位ごとに独立組合の結成をはかることを戦略的に位置づけることはできないだろうか。 そして、 教職員による (将来的には地域住民による) 校長への勤務評価の導入要求 (校長の選任へ) を対置していくなどの豊かな闘いを構想できないだろうか。
B 労働運動の再建について
 権力が消費主義イデオロギーを使い労働組合運動のみならず政治運動をも衰退させたという氏の分析は鋭い。 われわれが独立組合運動の戦略化をはかり政治運動の再興をめざすのならば、 この消費主義イデオロギーへの批判は避けて通ることはできない。 大内氏が消費主義によって衰退させられた労働運動や、 拡大する社会的格差の認識を、 増大する失業者を含めた周辺労働者と常用労働者の連帯・連携の中でとらえ、 サービスの提供―消費という関係で見えなくされてきた労働―資本という関係を再び見えるものにし、 労働運動の再建をと考えているとするならば、 基本的には支持をしたい。 ただ、 忘れてならないことは、 子どものためにということで過剰サービスを強いられている現状をどうしたら教員の過剰サービスの解消のために教育条件を改善せよということへ反転させることができるようになるか。 そのために必要なことは、 本来労働はそれ自身が人間にとってよいもの、 必要なものという観念 (旧来の左翼思想のみならず、 伝統的日本人の意識にある) に基づき、 現実のいやな苦しい労働をよりよいものに変えようとする考え方から、 労働の縮小やワークシェアリングなどの要求が出てくるようなものに転換させていくことである。 さらにまた、 消費主義のひとつの根拠になっている労働のサービス労働化への変容や社会全体の中での労働の役割の縮小などの情勢分析と共同体論を含めた社会システムの変革論の展開が必要になってくる。
C 教育改革について
 大内氏の新自由主義による施策が、 自由化ではなく個性化というキーワードで実現化されたという分析は、 八〇年代から二〇〇〇年にかけて教育改革の動向を理解する上で非常に分かりやすい。 また、 ゆとりと個性尊重の名のもとで展開されている新教育課程が反知性であるという指摘も非常にわかる。 読み書きそろばんという知性の基礎教育が学校で軽んじられて、 それを保証できる階層とそうでない階層の分化が激しくなっている現実もここからわかりやすく説明できる。
 最後にこの間の各界からの教育改革論議や提案を見た時、 BCの視点からは小浜逸郎提起がもっとも近いものと考えているところです。 大内氏の改革提案などまたの機会に是非お聞きしたいところです。
終わりに
 遠路はるばる愛媛の地より横浜までお越しいただき、 情勢に非常にマッチし多くの問題提起を含み実り多い講演をしていただいた大内氏に感謝の意を示すとともに、 これからもさらなる意見交換をお願いし、 集会報告を終えたいと思います。

 

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