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横校労ニュース
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横校労の取り組みがわかります。


02 全国学校労働者交流集会   〜 参 加 報 告〜

「教育改革を休もう〈ゆとり〉でええねん。」
記念講演 9・11テロ以後の世界
酒井 隆史 (大阪女子大)
 やっとバイト生活から脱出してあこがれの公務員になれたと思ったら、 統合で女子大はなくなるという。 「また泥舟に乗ったよ」 とからかわれている。 改革の波でどこにも逃げ場がないと笑わせながらお話が始まった。
ダブルバインド
 産業構造の転換に伴って新しい社会観や子ども観が要請されているにもかかわらず、 日本とりわけ教育においては、 それに乗りきれずに四苦八苦している状況がある。 精神医学の用語に 「ダブルバインド」 という言葉があって、 矛盾した命令を受け続けているとだんだんと人格が破綻していくという意味だが、 今、 日本の子どもたちや日本社会全体がその状態にあり、 まぬけな蛇行を繰り返している泥舟のようなものである。
9・11の衝撃
 9・11テロ事件はここ十年ぐらいにいろいろなレベルで表われてきたことがドラスティックに出たものである。 このニュースを聞いて思ったことは 「せっかく反グローバリゼーションの運動が始まった時なのに、 これを端緒にして一気に反動化していくだろうな」 ということだった。 アメリカの報復戦争はその表れである。 ここにきて私たちは二〇世紀的な社会政治構造を対象化して相対的に考えざるを得ない状況に来てしまったのだと思う。
経験の普遍化ができない
 かつては自分の体験を社会、 世界につなげるような同心円的構造――プライベートな体験を家族↓社会↓国家↓世界に普遍化できる構造があった。 ところが八〇年代から起こった産業構造の変化、 テクノロジー観の変化、 それに伴う主体性の変化等が、 かつて同心円的結びつきを解体していく形でグローバリゼーション・新自由主義の攻撃が行なわれ、 しかもそれを批判する側がうまく言語化できない無力さも相乗効果を起こして状況は更に進んだと言える。
 九〇年代にもロス暴動やチャパス先住民の峰起、 フランス労働者の大ストライキ、 韓国の労働者運動などの社会運動があったのに、 かつてのロシア革命が世界各地に闘争を引き起こし、 中国革命が民族解放をうながし、 六九年に世界各国での闘争があったようには飛び火することなく終ってしまった。
〈J化〉とナショナリズム
 世界のいろいろな運動がグローバリゼーションを対象とした運動志向だったのに、 日本ではロス暴動もWTOの反抗にも驚きさえしなかった。 日本ではなぜグローバリゼーションを撃つ社会運動ができなかったのかを考えると絶望的になる。
 その原因のひとつを私は 「J化現象」 と呼んでいる。 今CDを見ると題名も曲名も歌手名も英語か何語で書かれ、 日本語が一字もないものが多い。 Jポップスに外国語が多用されているにもかかわらず、 Jポップスの人たちは洋盤をほとんど聞かないというかつてなくグローバルになっているが、 他国や民衆の動きに対しては鈍感になっている。 にもかかわらずナショナルなものがあるという現象を呈している。
 ナショナルなものについてはWカップでの日本と韓国の違いを思い出して欲しい。 韓国の歴史を背後に持った 「テーハミンク」 に比べると、 「ニッポン」 は非常に空疎な感じがした。 「日本の若者は寛容で柔軟になった」 との評価もあるが、 空疎になって何も考えず国家に吸収されていっているのではないか。 かつてサブカルチャーとかアンチカルチャーという形で市民にしろ民衆・大衆にしろ国家とは違うものが媒介としてあったが、 それらが衰退して、 個人と社会をつなぐものがなくなり、 アイデンティティを持とうとすると国家しかないという状況になっているのが今の日本なのであろう。 そこへ小林よしのりなどがうまく入りこんでいるのである。
〈以下 次号 田中敏治〉

第1分科会
「学校での働かされ方 ・ 働き方」
〜研修問題を中心に〜
 夏休み直前の読売新聞一面に、 挑発的な 「研修攻撃」 の記事が掲載された今夏、 第一分科会に寄せられた関心も高く、 第一日目には総会出席者の半数近くが参加した。
 レポートは、 学校事務職員の立場から、 福島での 「三〇人学級と職員配置」 について、 弾力的運用が非常勤講師の配当によってなされていることの実状と問題点が出された。 石原都政下での強硬な教委の動きに対し、 研修を 「西多摩自由大学の取り組み」 で対峙したアイムからは、 市民と共に十三講座で一〇〇〇人を越える参加者を得て、 市民からは更に拡大、 継続を求める声も出ているとの報告がなされた。 交渉が全くといっていいほど意味をなさなくなった東京でも、 この創意に富んだ取り組みで、 研修として 「自由大学」 を認めざるをえなくなっている。 大阪からは、 これまで研修権を奪われていた非常勤講師に、 労働協約を結んで研修権を得るという闘いの成果が報告され、 更に自主的・主体的研修保障について論及があった。 横校労としては、 研修問題がクローズアップされるまでの取り組みと措置要求闘争、 ワーク&ペイの原則の確認から教特法の矛盾↓廃止までの労働原則について改めて提起をした。 富山からは、 自宅研修をとる過程での校長との交渉と問題点の整理の報告があった。 アスクからは、 「研修 (校外・校内) は職務・勤務であるとの論理」 を、 教特法の成立過程まで逆のぼり、 第19条と第20条の法意を確認することが必要であることが述べられた。 給特法と勤務時間内の校外研修、 日ごろの超過勤務との相殺的発想の問題点、 そして文科省の三つのカテゴリー分け@職務命令としての研修A職免研修B休暇・時間外研修を批判し、 研修は事務でしかなく時間内に行なうべきで、 本務の絶対量削減とパラレルに考えるべきとの主張も出された。
 教特法成立時の趣旨に沿って、 各分類によって個別承認すべきものではなく、 包括的なものとして当然 「研修」 権を行使すべきとの意見も主張され、 白熱した討論に進む内容の分科会であった。
(朝倉賢司)
第2分科会
「法制下での日の丸 ・ 君が代」
 歴史教育はやはり必要。 例えば 「総動員体制下」 にも、 「自発的動員」 など国民の側の問題もあった。 一方そうした歴史 「継承」 の際、 若者の側に画一的な言動を期待されるという 「子どもの権利条約」 批准の質を問う若い指摘も。 反省。 さて、 その 「子どもの権利条約」 にかかわる 「子どもの内心の自由」。 それを守るため起立しなかった教職員に処分を続けてきた北九州市教委。 裁判開始の起立も同根であるが、 参加者の中に起立できない障がい者や気分の悪くなる人 (=精神的も含め) の存在を全く予定していない規制は、 人権問題の面を含み、 必ず打ち破れる質の攻撃である。 しかし被処分者側から、 処分の前の 「職務命令」 が出された時点での丁寧な分析や対応はやはり大切、 との真摯な反省も出された。 それに対し、 法制下以降、 圧力が増しながらも不当なキャンペーンと闘ってきた 「国立市・国立二小問題」 の報告者からは、 「職務命令」 が出されるときには冷静に 「誰が誰に何を」 とその重さを追求することで、 後で撤回させる事ができたとの報告。
 法制化されたとはいえ総意次第で 「象徴天皇制」 を廃止できる 「国民主権」 や 「子どもの権利条約」 を念頭に 「継承=指導」 を続けていけば 「職務命令」 もはねつけられるし、 将来、 子どもの側からも多様な 「意見表明権」 が行使される時代が来ると確信できました。 (岡 健朗)

第3分科会
「独立組合の闘い方」
 始めに兵庫自立教育労働者組合神戸支部の報告がされた。 昨年度の四月に結成されたばかりの組合で、 少数組合の長所といえる。 組合員一人ひとりが当局との交渉の当事者となり自らの権利をたたかい守るという原則をうたっている。 市教委とのやりとりが面白く紹介された。 組合に集まることによって元気になっている人たちがいた。
 山梨からは情報公開を活用した闘い方が報告された。 組合結成以来、 三年未満で不意転という人事異動による不当ないやがらせに対して、 個人情報開示請求を県教育委員会に行なった。 その結果一部不開示処分となったものを裁判にしたものである。 訴えを起こすなかで法律の使い方に強くなっていくことがよくわかった。
 東京の増田さんは、 産経新聞のキャンペーン記事により都教委に 「長期研修」 処分とされたが、 今年度現場に復帰した。 処分の原因のひとつとなった土屋都議の誹謗中傷に対して東京地裁は不法行為を認めた。 自分の正当性を主張し続けたこと、 教委との壮絶なやりとりが報告された。
 埼玉や横浜などの多くの報告があるなかで、 法律をどう使ってゆくか、 法的には負けても実質がとれる場合もあること、 措置要求を出したあとの対応、 法の限界性など、 実践的な話し合いが続いた。
(溝口紀美子)
第4分科会
「 『学校五日制』 と子ども」
 年に一回開催されるこの集会が私にとっては自分を観測するための定点のようなものになっているのだなあと改めて感じた。 昨年もこの分科会に参加し、 子どもや親に対して感じる違和感からいまのわたしを見つめ直す視線のもち方を教わった。
 しかし、 この一年職場で親や子ども、 管理職との間に感じる違和感と対峙した時、 考える間もなく、 自分の感覚には蓋をして単に解決のために時間を尽くしてきてしまったのではないかとの思いがある。
 今年の分科会は子どもへの視線のもち方というよりは 『学校五日制』 によって忙しくなった私達の働き方の問題が多くの参加者から出された。 総合の計画や段取り、 夏休みの授業、 託児所的あれこれと時間外勤務は増えるばかり。 地域のネットワークがないため学校が託児所的機能を負わざるを得ない、 子育てをサポートする役割を職業化することが必要なのではないか、 現在のこれらの問題は二〇年前に今の管理職たちが行った管理教育の結果であって我々がそれを負う必要はない、 総合的な学習の時間も自主性や主体性などといわれるが、 レールを引いた中での形を変えた管理教育だなどの意見が出された。
 目の前の仕事が本当に自分がやらなければならないものかどうかを見極め、 自分を取り戻す時間をもたなければ、 と思った。
(赤田真知子)

第5分科会
「迷走する教育改革」
 一つ目の報告は千葉学校労働者合同組合の岡田尚三さんの 「教育課程の取り組み」。 小学校において@クラブ活動やモジュール扱いの時間、 総合の時間をどのように週時数の中に取り込んでいったかA総合の時間の教材と評価をどうしたかが報告された。 一学期を振り返ってみると、 全体的には 「文科省の言ってることに振り回され」、 監視する 「世間の目」 におびえ、 「言われるがままの教師」 が増えた。 「そろそろ教師も爆発しないととんでもない世の中になりまっせ!」 としめくくった。
 二つ目は東京・アイムの根本隆夫さんの 「総合学習を巡って」。 中学校の具体例として、 講演会、 公開講座、 作文朗読コンクール、 職場体験、 福祉体験、 NIEなどをあげていた。 一般受けが良いものだけに 「教材研究・準備の時間保障」 も 「設備」 もない状態の中で学校現場の苦労は泥沼にはまり込むようである。
 三つ目の京都、 ユニオンらくだの漁野亨さんの 「教育課程における評価と評定」 はとても主旨のはっきりしたものだった。 @教育課程の編成が地域・学校にまかされたことは、 私学・エリート公立校と一般公立校との差別であり、 保護者の経済力の差がそのまま学力差に反映し、 絶対評価によって一部の恵まれたエリートと一般の生徒という構図を更に定着させることになるだろう。 A上からの評価基準やパターン化したテストを使わざるを得ない多忙さはものを考えない教師を育成していくだろう。 「生きる力」 は 「分を知ってこそ生きる力」 にしかならないと批判された。
 今、 自分が苦しんでることは全国どこも同じだと思った。(田中)

 

 

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