●ホーム●ニュース●トピックス●組合大会・組合関係→'03.7

横校労ニュース
トピックス
●組合大会・組合関係
横校労の取り組みがわかります。
教育基本法 学習会報告
「国家の基準によらない教育を」
――学制発布の時からすでに誤りが――


講師 高橋勉さん

 戦後教育の根幹とされている教育基本法の改正が三月二〇日中教審から答申された。 これを受け今通常国会に法案の提出の予定だ。 与党の足並みの乱れから成立は困難視されているとはいえ、 教育基本法をめぐるさまざまの論議が改めてなされようとしている。 横校労も 「教育基本法よ、 何処へゆく?」 のテーマで連続学習会をもち、 第一回として六月二八日横浜開港記念会館で元教員の高橋勉さんをお招きし講演いただいた。
 以下は講演概要の報告である。

プロフィールから
 一九四〇年は小学校四年生の時、 臨海学校がきっかけで親しくなった友人に崔くんがいた。 一九四〇年という年は天皇紀 (皇紀) で二六〇〇年とされ、 日本列島のみならず朝鮮半島など海外の広大な植民地まで領土を拡張したことを祝い、 植民地などの住民を東京に集め天皇の下に平伏させる大式典が行なわれた年でもあった。 前年の三九年一二月には創氏改名が強制され、 翌四〇年二月一一日から八月一一日までの六ヵ月が登録期間となった。
 二学期になった九月のある日、 崔くんのところに六年生がやってきて暴行を加えた。 創氏改名の登録期間をすぎても改名しようとしない崔くんが標的にされたのである。 崔くんに対する仕打ちに憤った四年生はまとまって六年生に立ち向かい、 全校での大乱闘のようになった。 その時の四年生の担任であったスミヤ先生は、 まだ二一歳の青年教師としてずっと崔くんや彼を守ろうとする四年生の立場に立ってくれていた。 そのスミヤ先生が家宅捜査を受け釈放されたものの一〇月には召集令状をうけ、 同じころ崔くんも学校に姿を見せなくなった。 崔くんたち家族は非国民として追放され、 スミヤ先生は三浦綾子の小説 「銃口」 にあるように反体制者として戦場で弾丸の盾にされたのである。 私が教員を志したのはこのスミヤ先生に負っているところが大きい。

教育の国家基準
 教育に国家基準というものがあってよいかという論議があり、 私は不要という立場だが、 日本で最初に教育の国家基準として定められたのが一八七二 (明治五) 年の 「学制発布」 である。 この学制発布については成立までの経緯が殆んど語られておらず、 謂わば歴史の暗部とも言えるものである。
 一八六八年 (明治元年)、 明治政府は各国に新政権の成立と不平等条約の破棄を通告したが、 条約破棄は拒否された。 七一年には廃藩置県、 「大学」 を廃し文部省を新設、 文部卿に大木喬任が就き米欧に使節団派遣を決定、 全権大使に岩倉具視が任命され、 同年一一月に横浜港を出発した。
 関税をはじめとする不平等条約改正にむけて二つの主張があった。 一つは西郷隆盛、 板垣退助らの武断派の主張であり、 もう一つは木戸孝允、 大隈重信ら開明派のものであった。 政府を統轄していた三条実美は天皇に裁断を仰ぐために両派の中間的立場を取る岩倉に相談し折衷案で打開を図ったが、 武断派の怒りを買った。 結局、 開明派の主張に沿って国内法の整備が行なわれることになった。 視察団派遣もそのための段取りであった。

国内法の改正
 十一月視察団が出発した直後、 アマテラスオオミカミから新天皇に国土の統治を托されたことを祝う大嘗祭が挙行された。 これによって天皇は法を超越した統治が可能になったのである。 大嘗祭は、 明治維新の理念と祭のもつ神がかり的内容の齟齬のために延期となっていたものであった。 これ以後使節団が米欧を回っている間に、 西郷をはじめとする留守政権は次々と国内法を改正し、 発布した。 使節団の帰国までは制度・人事に手をつけないという約束があったにもかかわらずである。
 七二年二月には 兵部省を廃し陸・海軍省を創設した。 国土防衛だけなら海軍省は不要と考えられるが、 国家予算の三分の一が海軍省に回されことからも侵略の意図が強く押し出されたものであった。 陸軍も人民の暴動鎮圧する鎮台 (後の師団司令部になる) を全国に六ヶ所設けた。 士族制度維持のための秩禄支給も予算の三分の一を占めた。 それらの財政基盤になる税制も地租改正としてそれまでの年貢制から現金化したが、 課税の基礎となる土地の価値を不当に高く評価し、 収奪した税金をもとに軍事大国化の道を進もうとしたのである。 太陰暦から太陽暦への暦制改正、 天皇紀の創設、 徴兵令布告などの一連の動きの中で学制の発布もなされたのである。
 七二年八月三日、 学制が発布された。 同時にそれまで全国に一五〇〇〇 (から五〇〇〇〇と諸説) あった寺子屋などの私学を全て物理的に廃止した。 廃止した上で新しい学校づくりには、 人口五〇〇人に一校と数字だけの机上のものであって、 建設の補助金は一人に対し僅か九厘という微々たるもので国民 (地域) に高い負担を負わせるものだった。 寺子屋では負担は少なく実際に多くの子が教育を受けていたのにである。 そのために学制反対の一揆が各地で大規模に起こった。

使節団の帰国
 七一年に日本を発った使節団は、 行政事務手続き上の不備と悪天候などのために捗々しい成果をあげないまま月日が流れ、 日本国内からは武断派中心の法改正が伝えられ、 七三年には使節団のメンバーは当初の使命を果たせなかった責任を問われる恐れの中、 別々に帰国せざるをえなくなった。 このなかで、 出発時文部理事官として教育担当だった田中不二麿は、 米欧の諸事情を知ることで教育への構想をいろいろ持ったことは確かである。 米国では住民が自分たちで学校を作っている、 スイスでは国家が教育に干渉しない、 フランスでは住民の代表が教育の問題について意見を言う 「教育議会」 を持っている等などである。 田中は日本について、 寺子屋も実態的に先進国と同様の学校であったとの認識を持つにいたった。 三月、 田中帰国。 大木喬任が文部卿を辞任し、 田中が文部省務を掌握する。 しかし、 田中の役割はまず学校づくりの補助金の内容を改めるところから始めるしかなかった。
 八月には朝鮮に対する問罪使の派遣問題が生じ、 使節団の全権大使だった岩倉具視の帰国後、 西郷の脅しなどもあり問罪使の派遣が天皇の裁可で決定となった。 そして一〇月には征韓論が敗れ、 政権は崩壊した。 そのような政局の混乱で学制については白紙に戻すことができなかったのである。
 七九年に田中は後の 「教育令」 のもとになる 「日本教育令」 を起草した。 日本教育令はフランスの教育議会の構想を参考にした内容を含み、 これを見た天皇は不快感を示した。 天皇は三条実美に 「教学聖旨」 を示し元田永孚と伊藤博文の間で 「教育議附議」 「教育議」 の大論争が展開され、 田中の上には寺島宗則が文部卿に就いた。 その直後 「学制」 を廃止し 「教育令 (自由教育令と呼ばれるもの)」 が交付された。 八〇年には寺島が更迭され、 河野敏鎌が就任、 田中は司法卿に出された。 一二月には 「教育令」 を改正し 「干渉教育令」 といわれるものができあがった。 教育は国家の意思として人民が従うべきものとされたのである。 八二年には 「幼学綱要」 下賜、 八九年の大日本国憲法、 九〇年には神から下された金科玉条の言葉として従うべき 「勅語」 = 「教育勅語」 が発布された。

 教育は自分でしたいと思うからするのであって、 国家の強制や利益とは別のものである。 教員も、 国家の基準に従うのではなくて子どもの側に立つことによって、 子どもの可能性を開花させる人間としてありえるかどうか、 それが今の教育基本法の問題と繋がっている。 (文責 朝倉賢司)

 

© 1999-2003横浜学校労働者組合

本サイトの内容を無断で他に転載,複写する事を禁じます。