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教育基本法改 「正」 連続学習会
教育基本法改 「正」 がめざすもの (下)
――学校が愛国心を教えるとき――


講師 西原博史氏 (早稲田大学教授)

 普通の人々のレベルアップを目指した中教審から二〇年が経過した。

批判の対象
 教育の機会均等を掲げた教基法3条に対し、 天才論者は 「能力に応ずる教育」 がなされていないとして批判している。 能力論は、 従来は反能力主義の立場から批判されてきたものであった。
 もう一つは反日教育を克服する運動の論拠となっている自由主義史観からのものであり、 「個人主義批判」 が新たに加わった。 「根無し草として浮遊する個人」 の結集軸としての天皇を賛美する小林よしのりらが言う 「今の教育はおかしい」 との主張は、 現状把握として一定の根拠をもっていることは事実である。 小林よしのりの本が若い世代に売れている理由もそうだ。 しかし、 そうだからといって国家が教育を通じて 「公共のために」 愛国心をいうこととは別の問題である。 国民にある不足感、 不充分感を、 個人でなく 「国民」 の義務の問題として利用しようとする人達の存在がある。 具体例をあげるなら、 「すぐにキレる」 少年による犯罪の急増がまことしやかに論じられているが、 事実は違う。 少年犯罪の件数は七〇年代初頭をピークとして現在はその六割程度で、 凶悪犯罪は六〇年代のピーク時のであり強盗だけをとってもである。 検挙率の低下の指摘もあるが、 犯罪件数のであることは戦後あまり変わっていない。 また犯罪と認識されるものが減っているといわれるが、 増えているわけではない。 少年犯罪は減ってきているのである。 マスコミが中心となって増加しているとの情報操作が行なわれ、 増加の原因は教師がしっかり教えていないからだとし、 「こころの教育」 を通じて安全な子ども達をつくるべきだというメッセージに転換されている。 目標とされるのは教育勅語体制のような精神構造の構築である。

具体的な改正内容
― 「能力主義」 の導入と
  公教育の 「公共性」 の危機―
「能力主義」 という言葉は、 これまでは埋もれてしまうかもしれない能力をもった人への支援の意味で使われてきたが今は全く違ったものになっている。 「個性重視」 「基礎・基本」 「学ぶ意欲」 「個に応じた教育」 などの美しいことばが飛び交っているが、 殆どの人はこれらが尊重されて学校時代を送ったとは言わないだろう。 これらの言葉の対象は一部のトップエリートなのだ。 抱き合わせて使われる 「自己責任原理の徹底」 (経済学用語) は、 負けたやつはほっておかれる、 脱落を容認するということだ。 習熟度別学習は、 つまづいている子に手を掛けるのではなく、 上の子に対し傾斜的、 重点的に手を掛けるということなのである。
 学校選択制にしても、 実質的に誰が利益を得るのかを見ればねらいは明らかである。 荒川区の例を見ても、 発展レベル・基礎レベル別に学校の成績が公表されるが、 これにより進学に有利な学校が明らかになる。 「学校間競争」 を促しているのだ。 しかも同時に、 コンピュータにアクセスできる人が勝ち抜けるという 「デジタル・デバイド」 の問題がある。 コンピュータの情報にアクセスでき判断できる能力のある人のみが有利になるのだ。 「自由な選択」 のまやかしがここにある。 学校を選択し進学に有利な遠い学校まで車で送迎ができるかの差異や、 直近の学校でも倍率が高くなれば入学が難しくなることが起きる。 選んだことにより、 親は学校に対し発言しにくくなり、 地域として学校を支える力が弱まり地域共同体として関わることも困難になる。 一部の地区の学校にはいっそう行きたがらなくなり、 公立学校の差別化が進むことになる。 まさに、 学校教育の階級的分断である。 臨教審はこれを 「いいことだ」 としている。 子ども自身がこれを 「いい」 とするならばまだ容認できるかもしれないが、 親の情報収集能力と経済環境で決められてしまい、 子どもの権利としてはとても正当化できるものではない。

「愛国主義」 の徹底と
 公教育による基本的人権の崩壊
 国のいう 「公共の精神」 と 「愛国心」 は同じことを意味し、 これらの形成へむけた教育が強められている。 「社会形成に参画する 『公共』 の精神」 と 「日本人としてのアイデンティティ」 という言葉がそれである。
 九九年の 「国旗・国家法」 制定以来人権侵害が頻発した。 法制定時文相は 「強制しない」 と見解を表明した。 これにより二〇〇〇年の春は子どもたちにしてみれば 「強制しないでね」 という言葉を使えるようになった、 はじめてボールを持たせてもらえたということだ。 学校から 「どうするかは自分で決めてくれ」 とメッセージが発せられ、 以前は 「命令」 であったものが、 「単なる呼びかけ」 であるということが表に出るようになった。 これはこれまでの学校になかったことである。 以前は教師が強制から自分たち (子どもたち) を守ってくれていたのが (ガンバッテきた意味はあるが)、 自らの判断を求められるようになったのだ。 二〇〇〇年春は大きな意味を持った時期であった。
 しかし、 〇一年以降子どもたちは潰されていった。 大阪では校長会で 「(強制する) 事前説明はしない」 ことでまとまり、 東京でも 「座らせるな」 等の動きが認められた。 立たない、 歌わないという選択があり得ることも潰そうとしているのだ。 広島では校長の自殺事件と絡め不起立への処分が出され、 強制しないという確認自体が潰されていった。 〇三年の東京都教委の議事録では 「強制しないといったこと自体が間違いだった」 とさえ公然と語られ、 強制がさらに強められている。
 ひとつの方向に向かっていくマインドコントロールの手法が行なわれているのだ。 「国旗・国歌」 の強制による道具主義的子ども観の中核としての 「思想注入」 である。
  「こころのノート」 の導入も同様のことがいえる。 自己記入という操作的手法で一つの方向にマインドコントロールしようとしている。
 福岡市の小学校では神社の写真が載った表紙の通知票で、 愛国心の項目にA、 B、 Cの評価がなされる。 六年生ではこの評価も私学受験に使われることで市民などからの追求があったが、 市教委は 「公文書ではなく私的なものだ」 とうそぶいている。 愛国心をつかってのこころのあり方の強制である。 この通知票のもう一つの問題は、 福岡市の教職員組合で問題にならなかったこと自体のおかしさでもある。 エアポケットのように、 事の重大性に気づかないところに陥ってしまっている。 「愛国心」 だけの問題としてよりも 「平和」 の問題として捉えるべきではないのか。
 イラク戦争開戦直前の三月末、 小泉首相は 「世界平和を実現するために」 戦争を評価し支持した。 これが判断基準になり 「戦争反対を言うのは誤った人たち」 となり、 戦争に反対する教職員もそういった評価が下されることになる。 戦前の日本や各国の歴史を見ても、 先に洗脳が効くのは子どもたちであり、 やがて子どもたちは親を監視し、 周りと切り離すようになる。 統制の尖兵とするのだ。
 学校教育を使って、 子どもたちと 「国家」 との関係を支配し、 思想の全面的な統制を可能にする動きである。

今後の闘い
 現在も北九州などで不起立教員の裁判が続けられている。 勝っているのは手続き論のレベルで内容では困難な闘いである。 ピアノ伴奏拒否の裁判も山場を迎えている。 (一一月判決では敗訴…筆者注)。
 教育基本法が改正されるまではまだ裁判で勝てるかもしれない。 改正論者にとっては改正の邪魔を取り払い 「国民的決断」 とするにはマインドコントロールは必然だ。 しかし改正の受け皿になっている 「公共性渇望論」 に対し、 自律した個人による共同性を対置させながら、 何らかの形で周りに問いかけつつ、 多くの人々と問題を共有化していくことは、 必ずできると考える。

*講演後、 参加者から・教育委員会の制度・横浜の中田市政の評価・学校内の様々な関係性・能力主義の超克・民主主義とマインドコントロール・朝鮮との歴史的関係・実感としての教基法等の質問があり講師からは丁寧な回答をいただき講演を締めくくった。
    (文責  朝倉 賢司)

 

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