【寄稿】教育と教師の権力性を問う対話をつらぬく〜茅嶋洋一さん逝去の報に接して〜

文化欄

2019年10月26日、伝習館当該・茅嶋洋一(かやしまひろかず)氏逝去。享年七七歳。

茅嶋さんは福岡県立伝習館高校教諭として、1970年6月2日、懲戒免職処分を受けました。当時茅嶋さんは28歳、半田隆夫さんは32歳、山口重人さんは37歳でした。

 3教師は、「学習指導要領逸脱」「教科書使用義務違反」「一律評価」等を理由に免職処分を受けました。その教育実践は、評価権を持つ教師と、生徒の関係を、人間と人間の関係として対話=格闘を深めるものでした。

このような実践は、文部省からの出向者を中心とする県教委の敵意をもろに受け、さらに、当時日教組内の最強の組合と目されていた福岡高教組の、「組織的闘い以外は認めない」、つまり反弾圧の立場にたたず弾圧を容認しむしろ加担するという二重の権力によって圧殺を企図されます。

それに対して教師・在校生・地域住民による、始まったばかりの新しい教育関係を守る闘いが組織されますが、ついに処分にいたりました。

 その半年後「伝習館・自立闘争宣言」を発し、四つの任務を掲げた救援会が発足しました。

1、想像力と連帯の力で、三教師の生活と思想を守り通すこと。

2、三教師の法廷闘争を支援して勝利に導き、首をつなぐ。

3、柳川と教育実践に下降し、三教師の意志を体して柳川現地に柳下村塾を建設する。4、伝習館発見・伝習館創造としての教育・思想運動を全国にキャンペーンして、対権力闘争を構造化する。

伝習館闘争は全国の教員、学生、労働者に衝撃をもって受け止められ、私(たち)横浜の若い教師グループ(私は当時26歳)も救援会の一翼に連なりました。

1977年9月10日の横校労結成は、伝習館闘争に強く響き合うものであり、茅嶋さんは結成大会に以下の檄電を寄せられました。

状況が強いる負荷に抗し、自立的集団形成と新たなる闘いへ向けて、今出立せんとしている横校労に対し、祝意と連帯を表します。福岡・茅嶋 

茅嶋さんが来浜され膝を交えて語らったのは1979年3月の第二回教育闘争交流集会の場でした。

伝習館裁判は1990年最高裁において敗訴が確定し、茅嶋さんらの現職復帰はなりませんでした。

しかし河合塾講師として、予備校生と向き合い、国家と教育を問う対話を終生やめなかった茅嶋さんの初発の思想は、悪戦続きですが、しぶとく脈々と受け継がれています。

柳下村塾は1992年無名舎に改称されて今も持続しています。

 私は、茅嶋さん逝去の報を、11月16日、早稲田奉仕園で開催された第37回じゃんじゃん忌(小熊秀雄忌)の場で北村小夜さんからいただきました。

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