【ヒトゴトとジブンゴトとの間で揺れている患者のことばから見える水俣病!】
水俣病問題は今も続いているんだ!二〇一八年の今も、切り棄てられた患者たちが苦しみながら我慢の生活を送っているんだ!というのがこの本を読み終わっての感想だった。
<Cさんは、一五歳で不知火海の海べたから名古屋へ出て、必死で溶接を覚えたが、手の震えから三十代で仕事を辞め、建設会社に就職した。子供時代、親は魚の行商をしていたため、売れ残った魚は全て食卓にあがり、どんぶりいっぱい、鍋いっぱいの魚を食べた。結果、十代から頭の中にセミが四匹も五匹も住んでいるような耳鳴りに悩まされ、手にしびれや震えに悩んだ。仕事道具のハンマーがまともに打てず、字を書くことがどうしても恥ずかしい。(後略)>これが二〇一八年の相談記録だということに驚く。自分と同じ金の卵と言われた世代の多くは、中学を卒業すると集団就職で都市部に出て行った。その人たちが年を経て発症したり症状が悪化したりして、我慢しきれずに相談に来るというのは素直に納得できた。だが、東海地方など熊本や天草以外の場所で水俣病患者が存在することも、最高裁勝訴後に認定申請した人が六万五千人を超えるほどいたということなどは全く知らないことだった。思い返すと石牟礼道子の『苦界浄土』と七十年代の座りこみ闘争のイメージだけだった。
<原因不明の中枢神経疾患は、当初伝染性の「奇病」とおそれられました。地元の熊本大学は「水俣病の原因はチッソの有機水銀である」という見解を早期に発表しましたが、チッソや政府は日本化学工業協会や東京工業大学などから、より権威のある学者を動員して、それに反論します。原因究明は混乱させられ、患者とその家族の補償を求める運動はチッソの存在を脅かすと捉えられました>という文から、福島の原発事故対応が思い出された。一貫して水俣病政策が患者・被害者を救うことより企業・チッソを存続させることに重点が置かれているのも同じだ。一斉検診が公的に行われず、本人が申請しない限り認定審査されないことなども三十数か所で出されている福島原発被害者訴訟を連想させるものだった。
高齢化する患者さんに<水俣病のことを聞いていくということは、その人の人生に踏み込んでいくということ>で並大抵のことではない。それでも、やっとの思いで坂をのぼって相思社に相談に来る患者に寄り添い支えあっていこうとしている筆者は「まえがき」のさいごに次のように書いている。
<水俣病は決して教科書に書かれた歴史ではない。ひとりひとりの患者のなかに、そして水俣病を知った私たちに、それぞれの水俣病がある。今を生きる私たちひとりひとりの日常は、近く、あるいは遠く、どこかで水俣病と接していることを伝えたい>と。どこかで水俣病と接している実感は私にはまだないが、水俣病事件が現在も続いていると実感でき、それは福島原発事故事件の良きあるいは悪しき資料だということはしっかりと実感できる貴重な本である。著者の永野さんが水俣病に関わるまでのエピソードで印象深かったところもあったが、強く心に残った文をお薦めの最後のことばにします。
〈取り返しのつかないことをしたと思った。人の心を殺すのは一瞬だ〉
〈彼らの社会は、自立することや人に迷惑をかけないことを美徳とする世界ではなく、安心して迷惑をかけあえる「もうひとつのこの世」だった。それは飛びこめばすぐそこにあった〉。
コメント