2023年10・11月号 №543
学校の風景
~コロナ明け 復活すべきは?~
新型コロナウイルス感染症の5類移行に伴い、今年度の学校現場にはコロナ禍で中止されてきたものが次々と復活してきている。皆さんの職場ではいかがだろうか。
式典行事の人数制限、学校行事の時程や内容、地域の祭礼パトロールや懇談会などなど。制限解除が良かったものもあるが、せっかく縮小整理が進んだのにただ元に戻そうと考える思考だけが学校現場に渦巻いている。
一度作ったものを失くせない“伝統”を守ろうとする一辺倒な信念と、我慢をしていた“こどもたちのために”という大義名分に支えられて、その業務が本当に必要なのか、今すべきことは何かという思考はなかなか働いていかない。
例えば、夏休みが明けると文化祭の準備に忙しく、中学校では文化祭に合唱コンクールを充てることが多い。感染症のリスクが極めて高い合唱はコロナ禍で中止の傾向にあったが、また復活している学校が多いようだ。六時間授業の後ろに七時間目の総合が増えたり、昼休み練習に放課後練習、朝練習が可能になったりと、とにかく“こどもたちのために”、通常日課を超えて、勤務時間など無視され、休憩時間確保など眼中に無く、練習や準備の時間が確保される。こどもも大人もへとへとなはずなのに、この異常な季節を当たり前のように過ごしている。
時間をかければ良いものができるのは当たり前、しかし時間は有限だ。それを“マネジメント”することを学ばせるのも学校の役目である。まして、業務量と労働時間が見合っていないにも関わらず、ただただ教員の熱心な取り組みを労い、行事の成功を讃えるだけの管理職の元では「やりがい搾取」もいいところ。教員不足はますます深刻化するばかりだ。
今学校現場に必要な“復活”は、これまでビルドアンドビルドで積み上げた膨大な業務ではない。ゆとりを持って健康で文化的な生活を営める教員の姿ではないか。
労基法を適用しなければ時間外勤務は無くならない!
2023年全国学校労働者組合連絡会(全学労組)文科省交渉報告
執行委員長 名児耶 理
八月二一日(月)、今年度の全学労組による文科省交渉が参議院議員会館にて行われました。全学労組側二九名、交渉窓口の福島みずほ参議院議員も同席し、文科省からは五名が対応しました。事前に申し入れた四一項目のうち、重点項目として、“給特法廃止”、“「日の丸君が代」セアート勧告”、“有期派遣労働者の権利”、“公立学校の統廃合”の各項目について意見交換がされました。ここでは給特法に関する主な論点となったやり取りを報告します。(申し入れと回答はHPに掲載予定)
全学労組からの申し入れ
(一部)(以下、労)
「給特法を廃止し労働基準法を適用すること」
①「給特法」で想定されていない時間外労働に対しては、労基法第三七条による時間外割増賃金を支給せよ。
②週労働時間を定めた労基法三二条と、時間外在校等時間として定めた月四五時間、年間三六〇時間等の上限との関連をどう整理しているのか。
③二〇二一年一〇月の埼玉地裁判決が時間外在校等時間のうちわずかではあるが時間外労働と認めたことを文科省としてどう評価するか。
④変形労働時間制が無用の長物として利活用されていないことを文科省としてどう評価するのか。
ア、勤務実態調査の速報値(八月、一〇月、一一月)でも上限規制が守られていない状況をどう考えているのか。
⑤労基法三六条も教員に適用除外となっていない。現在現場で行われている限定四項目に含まれない多くの時間外労働は、三六協定の対象なるのではないか。
⑥教職員に休憩時間を取らせない及び月四五時間以上の超過勤務者を出した職場管理職には懲戒処分を出すよう通知を出せ。
イ、勤務実態調査の具体的な数値の分析を示せ。
ウ、教員の待遇改善に向けて方向性等を示すこと。
文科省の回答(以下、文)
①②いわゆる超勤四項目以外の業務は教員の自律的な判断による時間で労働基準法の労働時間には含めない。健康管理をしっかり行っていくために時間外在校等時間という形で管理していく。
③判決は承知している。裁判所において原告被告からの証拠を精査して検討された、妥当性等について裁判所が判断したものなので文科省として意見は控える。国賠法上の違法性はない。
④変形労働時間制について、長期休業期間にまとまった休日を確保してメリットとして教員のリフレッシュをする時間、休みが取れるという魅力を向上させていく。
⑤公立学校の教員に対して教員の特殊性に基づいて、勤務時間の内外を問わず包括的に評価したもので教職調整額を支給している。
⑥休憩時間の確保に関する労働基準法の規定を遵守すること、勤務時間の管理を適切に行うよう校長と教育委員会が管理するべきことを示している。
ア、イ、平成二八年と比較し全ての職種で平日土日ともに在校等時間が減少し改善が見られた。専門的な分析を行い、確定値及び分析結果を年度末に公表する予定。
ウ、学校における働き方改革をさらに推進し、時間外勤務時間を減らしていくこと、教職員の定数、教員業務支援員の充実を総合的一体的に進めていく。来年の春頃一定の方向性を示す。
労 裁判所の判断を関知しないというのは聞き捨てならない。そんなこと言ったら法治国家は成り立たない。裁判所は少量でも認めた。重大な問題だ。上限規定がなぜ守られていないかの回答がない。在校等時間を把握して管理すると言ったが、どうやって管理するのか。
文 「各教育委員会と校長にタイムカードやPC利用によって客観的に把握してほしいと伝えている」
労 退勤タイムカードを切って仕事をしている職員は大勢いる。校長は先に退勤する。校長は現実には管理していない。なぜ許されるのか。
文 「・・・」
労 罰則規定がないからだ。管理する必要がない。上限を超えても痛くも痒くもないからではないか。
文 「文科省としては各教育委員会校長にしっかり上限を守り、健康管理の責任があることを言っている」
労 文科省は私立国公立も管轄していて時間外勤務手当は払われている。なぜ労基法は時間外勤務に対して割増賃金を払わなければならないとしているのか。
文 「労基法の所管課長ではないので・・・」
労 労基法は私立国公立対象、文科省は指揮監督している。
文 「正規の時間外に行われた業務について処置していくために・・・」
労 国家公務員がその程度の理解では話にならない。時間外勤務の抑制だ。管理者は訴えられたら罰則もあるから時間外勤務を無くそうとする。だから、教員に労基法を適用しなければ教員の時間外勤務は抑制できないと言っている。時間外勤務をどう管理するかを何も答えられないではないか。
福島議員(以下、福島)裁判所の判決について文科省はどういう議論をしたのか。
文 「判決文含めて拝見した。時間外業務が労働時間に当てはまると判決されたことについて、給特法のあり方を中教審で議論している。」
福島 私立国立は時間外勤務手当が払われるのに公立は払われない、さいたま判決もある。文科省はイニシアチブをとって公立学校教員の労働条件を改善すべきだ。
労 富山地裁の判決は部活を労働時間として認め、確定している。どう捉えているか。
文 「文科省も承知している。長時間化をなくす施策を進めていく」
労基法なくして時間外勤務に歯止めなし!
さいたま超勤裁判では時間外勤務の一部が労働時間と認められ、富山地裁では部活動指導が時間外労働時間と認められました。判決に対しての文科省の回答は判決を真摯に受け止め、法改正をしていくという姿勢が全く見られません。また、上限規定さえも守られていない時間外在校等時間をどう管理するのかという質問に対しても、管理するよう周知しているという無責任な答弁です。現実に管理不能状態に陥っている学校現場は全国至る所にあるはずです。この役人たちは一度でも過酷な労働現場に赴き、その実態を直視したのでしょうか。青天井の時間外在校等時間の数字の裏には、健康を害し働き続けられない教員が増え、欠員が増加し、学校が危機的な状況に陥っている事実があることを実感すべきです。
労 回答は一〇年前と変わっていない。労基法三六条が適用除外になっていないで三七条が除外になっている意味だが、時間外勤務が限定四項目に限られたことで三七条は除外となった。当時四項目以外にも時間外勤務があることはわかっていた。限定四項目以外の時間外勤務が実際に存在することが明らかになった場合は、三六条で協定を結んで割増賃金を払うという理屈が成り立つ。でないと、三六条を除外にしなかった理由が見当たらない。限定四項目以外の超過勤務は全体の八割から九割、さいたま判決で国賠法上の違法性はないと言うが、現実に三六条を適用されるということがある以上、三六協定を結ぶべきという結論になるはずだが、あなたの意見は?
文「勤務時間の内外を包括して教職調整額が出されている・・・」
労 内外包括論は法制定当時の言葉で今は使われない。そんなこと言っていたらこの間の働き方改革の議論なんて何にもならない。在校等時間まで決めて守らせようなんて必要なくなる。五〇年やってきて成立しなくなってきたからこんな話になっている。あなたの準備はできていない、現状を評価していない。勉強して出直しなさい!
変わらぬ紋切り型の回答!
重点項目の回答は当日口頭で行われましたが、昨年度の回答と全く変わりませんでした。それどころか、給特法制定当時の理屈を繰り返すばかりで、代々お決まりの回答が役人側に受け継がれているのでしょう。教員の働き方がこれだけの大きな社会問題となっている現状に迫る回答は一切ありませんでした。労基法三六条がなぜ適用除外になっていないかの説明を求めましたが、文科省側は回答できず、後日、再質問という形で追及することになりました。
給特法廃止に向けて声をあげよう!
公立学校教員の長時間労働に実効的な対策がなされないまま、各地で教員の超過勤務についての裁判が起こり、教員不足という学校教育の崩壊に待ったなしの状況が世の中で注目されています。一方、五月の自民党政務調査会では給特法は維持、教職調整額の増額などという、教員の長時間勤務の根本的解決にならないような話も出ています。現在中教審の特別部会で検討が進められ、二〇二四年春をめどに方向性を示すとされています。
学校現場の深刻な状況を打開するためには、給特法を廃止して労基法を適用する法規制が第一歩です。そして、各学校での現場の労使関係や教員自ら「労働者」であるという取り組みの声をあげていくことが必要であると考えます。
参加した組合員の感想
①現行勤務実態調査は、学校実態を包括的に捉えておらず、休憩時間が十分に取れないことが明らかであること、②部活の自発的勤務は同意が必要と文科省が認めたことは、交渉の成果である。粘り強い運動が私達の生活水準の維持と向上には不可欠だと強く感じた。
全国の組合から集まった方々の熱気と、膨大な経験量と知識量、このままではいけないという一人一人の思いが、どれほど文科省の職員に伝わったでしょうか。想像力の欠如甚だしい、口だけの働き方改革はもうやめにしましょう!
文科省交渉に初めて参加した。
質問に対して、文科省側の具体的な内容はなく、形式な回答ばかりであった。少しでもいいから個人的な考えが聞きたかった。「本当にわれわれ教員の働き方のことを考えているのだろか?」と疑問に思ってしまう。
千葉学習サポーター不採用事件 千葉地裁裁判報告
第4回口頭弁論
中支部 高野 猛
九月二九日(金)、今回も千葉地裁松戸支部で「組合活動家敵視による学習サポーター不採用損害賠償請求訴訟」の第四回口頭弁論があった。
五階廊下には、四〇人くらいの傍聴支援者が集まっている。今回の裁判についての資料が配布され、裁判の流れを確認し、弁護士の紹介。傍聴人の入り口から、先に被告の集団が中に入る。つづいて傍聴人。今回も三〇人の傍聴席は原告の支援者で満員。原告と代理人も配置につき、三人の裁判官も席に着く。
裁判官は原告および被告から提出された書面を確認し、次回の日程調整を行う。日時が決まり、今回はおよそ一五分で終了となった。
原告から提出された書類は、前回の裁判直前に提出されたもので、今回提出扱いとなった。被告から提出されたものは、第三回口頭弁論において裁判長より「訴状への反論が印象表現ばかりで具体性が乏しいので、具体的な反論を書くように」と指導されて出された準備書面であり、A4で二枚半の内容だった。具体的な反論は三点のみで、完全なでっち上げと考えられる内容。今回この書面に対する原告からの反論は、提出していない。
裁判終了後、法廷横のスペースで二〇分ほど、ミニ総括会があった。被告は最高裁判例に基づいて、採用事務には「広い裁量権が認められると解される」「国家賠償法上、公務員個人は責任を負わない」ことから、「個人の認否を要しない」「弁論を分離してほしい」と主張している。これに対して裁判所は「この判例に当たらないのか、乗り越える何かがあるのか整理、主張追加するのか立証計画の提出」を原告に求めた。
次回弁論は一一月二八日(火)一五:〇〇~、千葉地裁松戸支部五〇六号法廷の予定。また、今回より弁護士と訴訟代理人契約を交わしたことによる弁護士費用のカンパを呼びかける会について話があった。(個人会員千円、団体会員三千円、連絡先は千葉学校合同)
横校労執行委員会では、団体会員となることが承認された。
二〇二三年 六月一三~一五日
「オトナのひろしま修学旅行」 (下)
溝口 紀美子
堀川惠子著『原爆供養塔』は、この場所を生涯守っていた佐伯敏子さんを中心に、忘れられていく死者とその声を聞こうとする者の貴重な記録だ。佐伯敏子さんは原爆で身内に一三人の犠牲を出して、自らも被爆した。この納骨堂に毎日通って掃除をし、遺骨の引き取り手を捜し、学生の前で話をして人生を送った。平和記念公園の中央にある「原爆死没者慰霊碑」には死没者の名簿が収められているが、遺骨は無い。公園の隅の忘れられたように静かな供養塔の下に、死者は眠っている。
元安川に沿って慰霊碑を訪ねて歩いた。八月六日、本土空襲に備えての建物疎開作業に広島市の中学生、女学生たちがこぞって動員されていた。ほとんどが亡くなり、当日の死者は六千人に及ぶという。「広島二中原爆慰霊碑」、「工業学校慰霊碑」、「市立高女原爆慰霊碑」と若い命を悼む慰霊碑が続いた。公園の南を通る平和大通りは彼らの墓場であると言ってもいい。その後の行程は広島平和記念資料館の見学、オトナの楽しみな交流会と、修学旅行の一日目は長かった。
二日目の午前中は、旧陸軍被服支廠跡に向かった。一九一三年に建てられて、アジアへ送る兵士の被服全般の調達を担った。現在でも約一万七千㎡の敷地に鉄筋コンクリート造り、レンガ積み外壁の四棟が残っていて、建物の端まで歩くのに一〇分はかかる。木が生えてきている大きな屋根を見ながら、この四棟すべてが保存されることを願った。峠三吉の詩「倉庫の記録」の場所だ。峠は知り合いの女性の看護をここで数日続けた。救護所の後は、校舎として、学生寮としても使われた。全棟保存の方針が撤回されたが、反対運動が広がり、現在国は全棟の耐震工事を表明している。
午後は元呉服店で被爆建物である「平和記念公園レストハウス」で、九〇歳を過ぎた植田䂓子さんの話を聞いた。妹を原爆で亡くし、その死体さえ見つからなかった䂓子さんは、自分を幸運だったと語った。中澤さんの新著『いつものところで』に登場する朗らかなおばあさんは植田さんがモデルだ。そして見学は、当時の伝言が残された「袋町小学校平和記念館」、被爆樹木のある「縮景園」と続いた。
三日目の午前中は、「韓国の原爆被害者を救援する市民の会広島支部世話人」の豊永惠三郎さんの被爆体験と裁判の話だった。詳細な資料には、四三件もの「在外被爆者裁判」を闘って、被爆者手帳を在外被爆者に届けようとしてきた歩みが記されていた。ご自身の被爆者手帳を私たちに見せてくださった。広島では七万人、長崎では三万人の朝鮮人が日本人として被爆したが、戦後は日本人ではないとして被爆手帳の対象外となった。それを、一九七二年から一つひとつ裁判勝利を重ねて、現在不十分ながら韓国で二千人近くの人が在外被爆者健康手帳を所持するようになった。北朝鮮の被爆者は放っておかれている。
この午前中で、赤田さんの企画した「オトナの修学旅行」は一旦終了となった。午後、一〇人以上が女性史研究者の加納実紀代資料室「サゴリ」(韓国語で交差点)にお邪魔した。加納さんは、被爆者の一人として広島の加害性、植民地主義をも鋭く追及した。その蔵書・資料を保存、整理、研究する場であり、広島・ジェンダー・『在日』が出会う交差点として「サゴリ」は今年オープンした。「ひろしま女性学研究所」の高尾きくえさんが待っていてくださった。図書館のような資料室は七〇年代以降の懐かしい雑誌や本で溢れていた。
この三日間、参加者の期待を上回る体験があった。私自身は、自分の無知を痛感した。折鶴を折って慰霊碑に花を手向ければ平和を祈ることになるのか。違うと言う声が、そこかしこから聞こえた。中澤さんと堀川さんの著書、植田さん、豊永さんの姿、峠三吉や四国五郎の人生、広島に流れる確かな水脈に触れることができた。被爆証言をされた人たち、図書館移転の反対や被服廠の保存運動、在外被爆者手帳の裁判、死者の声を現在に届けようと闘っている人たちに出会えた旅だった。
写真エトキ 韓国人原爆犠牲者慰霊碑
職場から
正規職員になって初めての異動。初任校を七年間勤務してからの異動となる。臨任の時は毎年のように勤務校が変わっていたが、七年も在籍すると、新しい環境に慣れるのにとても時間がかかる。前任校でのやり方や、慣例がデフォルトになってしまい、戸惑うことの連続である。
更衣室のカギが配られることや、どの部屋も施錠されていること。注文している紙のサイズや色の種類の豊富さ、印刷機や拡大機の操作の仕方、そんなちょっとした違いでも、「あっ!」となってカギを取りに戻る、使い方をほかの人に聞くなどタイムロスが積み重なる。
驚いたことは、完全下校の日なのに生徒がなかなか帰らないといった意識の違い(これは早く帰そうという教員側の意識の違いもあると思う)や、午前授業の日で午後に活動がない生徒も学校給食を注文している人は食べてから帰ることになっているということだ(前任校では、午前授業の日は学校給食を注文できないようになっていた)。夏休みの閉庁日の日数の違いや、テストの最終日の部活動の有無など、違いを挙げればきりがない。
現在の学校は中規模校なので、教員間の意思疎通が前任校よりスムーズに進む。「会議」と設定しなくても、放課後学年の職員全員が職員室にそろうこともあるし、教員間の打ち合わせが気軽にできるようになった。
複数の学校を経験すると、その職場ごとの良いところ、悪いところに目が行くようになるが、前の良かったなと思えるところを取り入れ、今の職場に生かしていくことができると、働き方改革に一歩近づくのではないだろうか。年末が近づき、来年度に向けて意向調書を書く時期となったが、年度末反省など今のよそからの目をもっているうちに、違和感を発信することは大切なことだと感じる。そういう働きかけをして、自分自身の労働環境を作っていくことの意義を改めて実感した。
(中支部 春山万里絵)
読者の声
教員になって今年で二年目。まだまだ慣れない業務も多く、自転車操業で毎日を過ごしています。前号の「学校の風景」では、夏季休暇に田舎でリフレッシュした記事が掲載されていました。私は、休暇中に「心も体もリラックス」と思っても、なかなか仕事モードから切り替えられず・・・でしたが、最近は、行先も決めず知らない場所に行って、写真を撮ることがマイブームに。日常と切り離されたスポットだからこそ、仕事のことを考えずに羽を伸ばせるのだと感じています。冬の休暇を楽しみに日常を乗り切りたいと思います。
(20代 中学校教員)
小学校で個別支援級を担任。日々、様々な特性の子どもたちと過ごす中で、支援員の存在は大きい。支援員は給食の支度まで手伝った日も、給食を食べずに帰ってしまうことが多い。給食が実費であることも関係しているよう…。一時間五〇〇円程度の時給で支援に来てもらっている中、実費となると、給食時間もいてほしいとはお願いしずらい。他校では支援員の給食は学校負担であると聞いたり、東京では支援員は職員(免許をもたない)であると聞いたりした。必要な子に必要な支援が届くようになってほしい。
(50代 小学校教員)
働き方いろはの 「ゆ」
盛山新文科大臣に問われるものは???
「名案はございません」?
新文科大臣に盛山正仁氏が任命されました。就任時の会見で「教員のなり手不足」について問われると「正直、名案はございません」と応え、その要因とされる長時間労働については「子供の未来を作っていこうと思えるような職場環境をどのように作っていけるか、お手伝いをできる限りしていくことができれば」と教育行政のトップとしては責任もやる気も感じられない応答をしています。
「学び舎」教科書採択で灘中学校校長に圧力
盛山文科大臣はどのような人物なのでしょうか。一つのエピソードを紹介します。2015年、私立灘中学校は歴史教科書に「学び舎」の「ともに学ぶ人間の歴史」を採択しました。この教科書は現役教員らが現場の立場から執筆しました。他社が圧力に屈し削除した慰安婦問題について、1993年河野官房長官(当時)が元慰安婦への日本軍の関わりを認め、おわびと反省を表明した「河野談話」を掲載し、併せて「軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような資料は発見されていない」と政府見解も取り上げ、生徒が授業で意見表明・討議できるように構成されています。しかし、採択後灘中校長宛に新文科大臣となった盛山自民党衆議院議員(当時)から「政府筋からの問い合わせなのだが」と断った上で「なぜあの教科書を採用したのか」と電話がかかってきます。校長は、「検定教科書の中から選択しているのになぜ文句がでるのか分かりません。もし教科書に問題があるとしたら文科省にお話し下さい」と毅然と対応します。しかし更にその後、南京陥落後に市民が日本軍を歓迎している写真はがきが約50枚、「学び舎の教科書は反日極左」「即刻採用を中止せよ」という文面が全く同一のはがき200枚以上が灘中に届くのです。校長は「圧力を感じた」と述べています(*1)。地元新聞の取材に対して盛山氏は「OBとして周囲から疑問の声を聞いたので、校長に伝えただけだ」「『政府筋からの問い合わせ』と言った覚えは全くない」と応えています。盛山大臣は、旧統一教会関連団体の会合に出席し挨拶をしたことも明らかになっており、盛山文科大臣の動静は注目していかなければなりません。
育鵬社版教科書採択へ向けた日本会議の動き
横浜市はかつて育鵬社版歴史・公民教科書を採択した数少ない自治体の一つです。来年度は中学校の教科書採択年度です。多面的な考え方でなく一面的な価値観を押しつける育鵬社版教科書等の採択へ向け地方議会への活発な請願運動を行っているのが日本会議です。日本会議は1997年有力な右派団体「日本を守る国民会議」(*2)と「日本を守る会」(*3)が合流する形で結成されました。その後運動を全国展開し、「憲法改正」の前哨戦と位置づけた教育基本法への「愛国心」の明記に成功し、現在は「歴史認識問題」「夫婦別姓反対」「従軍慰安婦の軍関与否定」「反ジェンダーフリー」などを中心に運動を行っています(*4)。神奈川県は日本会議の活動が活発な地域とされており保守系議員の動きとともに注視が必用です。
教員のなり手不足、名案はあります!
教員希望者でも教育実習で「ブラック」な職場環境に希望が持てず受験を辞めたという学生の声はあちこちから聞こえてきます。東京都の今年度の小学校の受験倍率はなんと1・1倍。小・中・高・特別支援学校を合わせた全体倍率も1・6倍で初めて2倍を切りました。このような教員のなり手不足に対する名案は明らかです。
1 教職員定数を改善し教員数を増やすこと
2 給特法を廃止し、時間外勤務手当を支給する労基法を適用すること
しかし、文科省が現在行っていることは「多すぎる授業の点検」や「学校や教員が担う業務の適正化」「働き方改革」などと言葉を掲げるばかりで、金も人も増やさず本質的な解決から逃げているのが実情です。来年度は、全国で行われた教員の勤務実態調査の最終報告が出され給特法の是非が改めて問われます。全学労組は8月に文科省交渉を行い、給特法の廃止、労基法の適用を厳しく文科省に迫りました(2,3面参照)。一方で、現場で起こる諸問題は日々解決が急がれ待ったなしです。横校労は、文科省、横浜市当局と対峙する職場に根ざした労働組合として重要な役割を担っていると自負しており、共により良い職場作りに向けて取り組んでいければと思います。
*1 「謂われない圧力の中で-ある教科書の選定について-」灘中校長論文
*2 「国民会議」は1981年結成.天皇在位50年奉祝行事、元号法制化に向けて運動した団体
*3 「守る会」は「生長の家」信者をルーツとし「生長の家学生自治会連合」による「左翼系セクト」から長崎大学自治会を「解放」したメンバーが中心になって1974年に結成
*4 「日本会議の正体」 青木理著 平凡社
(中支部 平川 正浩)
R・フラナガン「奥のほそ道」
「NarrowRoadtotheDeepNorthbyRichardFlanagan」
秋田支部 吉田 紀子
リチャード・フラナガンの「奥のほそ道」という本を読んだ。リチャード・フラナガンは、タスマニア在住の作家で、この作品でブッカー賞を受賞している。日本軍が計画した泰緬鉄道の建設に連合国軍捕虜として、オーストラリア人一万三〇〇〇人が従事したことを初めて知った。熱帯病、重労働、飢餓、建設を焦る日本軍の体罰などにより多くが命を落とした。そこから生還したフラナガンの父が語る断片的な記憶から事実を掘り起こし、一二年の歳月をかけてこの本は書き上げられた。戦前、戦中、戦後、タスマニア、メルボルン、シリア、タイ、シドニー、東京、神戸、札幌と時と場所を重層的に行き来して、俳句を詠み斬首する日本人将校、皇民化教育を受けやがて絞首台に送られる朝鮮人軍属、生体解剖に立ち会う研修生、マラリア、コレラに苦しみ、医療も食事もまともに受けられない中、痩せさらばえて泥の熱帯で苦しむオーストラリア人捕虜たちの様子を簡潔に描いていく。そこにいて見たままを語るように。
※
私は一六歳の時にロータリークラブの交換留学生としてタスマニアで一年を過ごした。受け入れ家庭の一つであったウイリアムズ家とはいまだに行き来があり、この四月に兄のピーターが秋田に遊びに来たばかりだ。その際に、ピーターの父であり、私のホストファミリーの父のローリー・ウイリアムズが軍人として従軍し日本軍と戦った人だということを知った。ピーターは、父が私の受け入れを決めた当時、日本軍と戦った父がなぜ?と思ったと語った。
しばらくして、オオシラビソ(モロビ)の香りが好きということが共通項の友人が秋田に来た。ふと、タスマニアのことや父ローリーの話をしたところ、この本を勧めてくれた。読み終えて数ヶ月経つが、言葉にできない思いを持ち続けている。一六歳だった自分、娘のように愛してくれた父ローリー、誠実で優しかったタスマニアの人々を思い出す。かの地には、フラナガンの父以外にも日本軍の捕虜となり、酷い扱いを受けて生還した人々がいて、その人々の目線は確実にそこにあったはずだが、受け手の自分の無知が、その状況を浅いものにしてしまっていたのだと感じる。
※
ユーチューブで、フラナガンがタイや日本を訪れてこの本を語るBBCのドキュメンタリーを見た。見せしめとして日本軍になぶり殺されたオーストラリア人捕虜ダーキーのモデルとなった人の墓の前で、インタビュアーから感想を求められ、湧き上がる思いに涙して答えることができなくなる場面があった。自分の命を削るようにしてこの本を書いたのだなと感じた。フラナガンは一九六一年生まれで、私が当時通学したリバーサイドハイスクールで同級生だった可能性がある。一緒に授業を受けていたかもしれないと考えたりする。ピーターからも様々な場面でフラナガンと交流があったと聞いた。日本語版が二〇一八年に白水社から出版されている。
編集後記
九月まで汗だくで働いていたのが嘘のように、一〇月に入ってすっかり涼しくなった。学校では前期の通知表作成に続き、運動会や合唱コンクールに向けての練習が始まり、忙しい季節。インフルエンザやコロナも流行っており、体調管理に気をつけたい。
文科省交渉では、時間外勤務についての抜本的な解決を全くしようとしない「ヒトゴト」の文科省の返答に怒りを覚えた。何十年も前から話が進んでないと古参の組合員は言う。長時間労働が敬遠され、教員採用試験の志願者が減り続けているというのに。
大学三年生から採用試験を受けられるようにしたり、採用試験の範囲を大幅に縮小したりと、あの手この手で志願者を増やそうと各地の教育委員会がやっているのは小手先の対策。根本的な策として、長時間労働の是正、正規教員の増員、OECD各国の平均を下回る給与の改善など、やるべきことは多い。今でさえ欠員のある学校が増えているのに、現場の切実な声は文科省のお役人に届いているのだろうか。早急な対策が求められる。「いつやるか?今でしょ!」待ったなしです。
(n)
連載第28回 3・11とアート ―《讃歌 樹木》―
山内 若菜
樹木は現代に生き残っている
被爆した歴史を背負いながら踊っている
よく見ていると樹木の生命力を感じてきて
その感情の流れを太田川の流れにのせて
金の輝きは命 木に川に虫にのせて
今そこにある現代の風景は霞んで
湾曲し躍動する生命への讃歌
火傷を負いながらも輝く
樹木への讃歌
左から右へ、右から左へ―見方を変えて見てほしい。近寄ったり、遠くから見たりしてほしい絵です。
今、広島で増えているヌートリア、古代からずっとそこに在り続けてきた川を、その周辺に生きる生き物を、蝶を、水鳥を、そして日清戦争凱旋碑を、時の層を重ねるように描いてゆきました。
たくさんの生きものたちを隠し描きました。原始、昆虫たちの楽園でもあり、生きものではないかもしれない小さな雲間や、三滝で見た蛙たち。どこかに何かがいる?そんな風に、見つけてもらえるように。
広大の学生さんが被爆樹木が広島サミットで伐採された事に心を寄せて絵を描いていたので、そのシダレヤナギへの眼差しを(分有)するように描いてゆきました。福島の根っこを、広島の樹木の根っこにみたて、その場で絵に加筆しました。同じ問題だと福島の馬の鬣も埋め込んでいます。
和紙をはる場所の端っこが裂け目みたいに見え、大地の傷のような赤、だけれども土に生きる微生物は生きていて、100年は草木もはえないと言われた土の下にある、生命の宇宙のような重層的な星たち見つけてゆきました。長野の中学校の講演会でも展示講演しましたが、生徒さんに一番人気の作品となりました。
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