【3.11とアート】第4回 牧場から飛び立つペガサス

山内若菜 3.11と私

福島の牧場と絵の変化

 福島県浪江町の牧場主、吉沢さんは、東京電力福島第一原発事故で被曝した肉牛300頭以上の飼育を続けています。

事故の証拠として牛の命を生かすというこの牧場主の叫びを聞き、私は衝撃を受けました。馬の変死が続く飯館村の牧場にも通いました。どちらも線量がとても高い被曝の牧場でした。

 「おれはベコ屋だ、牛の殺処分はさせない。でも今も問いながらやっている、売れない牛を生かす意味を」と言っていた吉沢さんの言葉は、だんだんと「残りの人生、3.11を背負い、この牛達の声と共に闘っていく」へと変わっていきました。

吉沢さんが国会前でも叫び声をあげている姿を見て、(絵本の?)スイミーの目のような目をした方だと感じ、それが、日々、命の軽さを感じていた私の中を駆けめぐり、脈打ち始めました。

 聖書では神を「飼い主」と表現するそうですが、神々しい光を放つこの牧場主を描きたい、牧場を大きく描きたいと思いました。

 でも放射能は見えない。においもない。その怖さをどう表現してよいものかと悩み、ある日、どうしても可視化しようと思いました。

見えないものの怖さを可視化させながら、その中に潜む「見えるもの」を浮かび上がらせようと。福島の動物たちの異常は、貴重な「見えるもの」でした。

 汚染された空気の中に生きる白い斑点の牛を描き、土色の生きた証拠の牛の一頭の美があり、群れの牛と生かす吉沢さんを描いていると、吉沢さんの頭から、不死の象徴ペガサスが出てきました。

「無駄な命なんてない」そう言っているようでした。牧場主を描いているのか私を描いているのかわからなくなりながら、牧場の小さい場面と大きいうねりを交錯させながら、今まで描いてきました。

これから私の希望の形が出てくるかもしれないと、まだ答えは出ていないのですが、絵が教えてくれるような気持ちでした。この絵を見た人に、この福島の牧場に訪れるようになってほしい。いろいろな見方で、感じてほしい。

そして、私自身の叫びを含めた「命の叫び」を描きたい、そんな気持ちでした。

関さんを描く

私が変化し、絵が変化した

 二〇一六年に「原爆の図 丸木美術館(以下、丸木美術館)」で中学生を対象とした発表したときの「牧場」作品は、最初は、真っ暗でモノクロでした。「絵が黒すぎて、何が描かれているのかわからない、怖い」そんな風にも言われました。展示としては、空間構成も失敗でした。

 かわいそうな動物達。頭のなかで真っ黒になっていた。メディアによる先入観から抜け出せませんでした。

 実際は動物に感動し畏怖の心があったのだけれど、描いていくうちにやはり放射能の怖さを描かなくてはという迷いにより、だんだん黒く、形も見えないものになっていてしまいました。迷う筆先があるだけで、希望も絶望も見えませんでした。

 それでもたくさんの人に見てもらうなかで、暗さから明るさへ、絵は変化していきました。存在しているということ、生きる力をその場で感じていきました。

牧場からペガサスへ

特に岡山の中学生に「ペガサスなんて見えない」と言われたことが、決定的な体験となりました。私が変化した。だから絵が変化した。何か壮大なものが心にこだましました。

 福島を描くことが私の自然、ありのままだったが、私自身が心を変えて見えて来たものがあります。感じたままとの矛盾、そして絵の方向を変えていきました。

 こうたどってみると、3.11後、東日本大震災の後、私の生命活動がはじまったと言えるのかもしれません。

 2016年の丸木美術館での展示自体は失敗でしたが、この美術館で、丸木伊里・俊の描いた原爆の図に2ヶ月囲まれて、改めて絵のテーマを見つけることができたように振り返っています。そんな糧を手に、展示の失敗なんてなんのその、描きました。

そして、2016年2月の地元藤沢での再出発展示ともいえる「牧場展」へとつなげたのでした。

【山内若菜】 

1977年    神奈川県藤沢市生まれ

2009年からロシアでシベリア抑留の歴史を忘れない文化交流を開始。日露友好個展、以後継続。

2013年から福島県に通い、2016年から福島の母子像や被爆の牧場を描いた展示を各地で開催。中学校などで芸術鑑賞として展示と講演活動を行う。

2016年原爆の図 丸木美術館にて「牧場 山内若菜展」を開催。

2017年ロシア極東美術館にて「牧場展」開催。

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山内若菜HP   http://www.cityfujisawa.ne.jp/~myama/

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